【雑記】ぶんきょうの坂道

前々から欲しいと思っていた、
ぶんきょうの坂道』を買いに、
文京ふるさと歴史館』に行ってきました〜


入館料は100円だが、
思ってたより濃い〜内容の展示物

今度またじっくり観に来よう!

とりあえず、
ざざざーっと観て、
目的の本のコーナーへ

あったーっ!
そして隣には、
ぶんきょうの町名由来』を発見
ちょっと迷ったが、
こちらも購入

歴史館を後にして、
パスタランチをしに、
PiaNta』へ

11時半からだと思い、
11時20分頃に到着すると、
すでに開いている

「もうオープンされてますか〜?」と恐る恐る聞いてみると、
「はい、大丈夫ですよ〜」と

“定番の明太子ソース”にするか、
期間限定の“たっぷりシラスと春キャベツのペペロンチーノ”にするかかなり悩む
悩み抜いた結果、
期間限定にした
+フリードリンク+サラダ+スープのBコースで

30MAR2017 - 1
オニオンスープ(左上)
アイスティー(右上)
サラダ(真ん中下)

大好きなコーンをこんもり盛っちゃいました
オニオンスープ久しぶり
美味しい☆

30MAR2017 - 2
白ワイン200円
200円の量じゃない!
普通にグラスに一杯
他のお店だと5、600円はする

お味も200円の味ではない
ちゃんと美味しい
前に飲んだソアーヴェっぽい

30MAR2017 - 3
メインのパスタ
シラスたっぷり〜
春キャベツが甘い!
美味しい☆

トータル1,200円
千駄木のパスタと同じ
でも量はこちらの方が断然多い
本郷って…

帰路につく
せっかく坂の本を買ったので、
いろんな坂を通って帰ろうと思った

まずは春日通りを渡って、
30MAR2017 - 4
『本妙寺坂』
(早速本“ぶんきょうの坂道”から引用)
“本郷(旧真砂)小学校の前を、
菊坂に下る坂である。
「本妙寺坂は丸山のうち、
本妙寺のむかひの坂なればなり、
これを下ればすなはち本妙寺の表門なり」(『改撰江戸史』)
本妙寺前の坂なので、
本妙寺坂という。
本妙寺は、
旧菊坂町八十二番地にあり、
菊坂の台地上一帯にあった大寺で、
元亀二年(1571)創建で、
法華宗。
明治四十三年(1910)豊島区巣鴨へ移転した。
江戸時代、
明暦三年(1657)の振袖火事の火元とされるが、
これには諸説がある。
また‘遠山の金さん’こと遠山左衛門尉景元、
幕末の剣豪千葉周作の墓があった。
石川啄木は、
本妙寺のすぐ近くの赤心館に下宿し、
明治四十一年の日記には「本妙寺境内の暗がりにて盆踊を踊る」とある。”

30MAR2017 - 5
見上げると結構な距離に見えるが、
意外と短い
菊坂と春日通りがこんなに近いと思わなかった

30MAR2017 - 6
その『菊坂』
(“ぶんきょうの坂道より”)
“「此辺一円に菊畑有之、
菊花を作り候者多住居仕候に付、
同所の坂を菊坂と唱、
坂上の方菊坂台町、
坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)
今は、
本郷通りの文京センタービルの北横から、
西片一丁目(旧田町)の台地の下までの、
長いだらだら坂を菊坂・菊坂通りといっている。
もともとは、
胸突坂(本郷五丁目9と33の間)や梨木坂(本郷五丁目6と7の間)も菊坂と呼んだようである。
菊坂といえば、
樋口一葉が思い出される。
一葉が父の死後母と妹の三人家族の戸主として、
菊坂下通りに移り住んだのは、
明治二十三年(1890)であった。
現在のオルガノの工場の敷地には、
石川啄木の下宿した赤心館があり、
その隣には、
菊富士ホテルがあった。”

白山通りを渡って、
30MAR2017 - 7
『善光寺坂』を上がる
(“ぶんきょうの坂”より)
“坂の途中北側に善光寺があるので、
寺の名をとって坂名とした。
善光寺の朱色の門が美しい。
善光寺は江戸時代、
伝通院(浄土宗)の塔頭で、
縁受院と称し、
近くに伝通院の裏門があった。
明治十七年(1884)に善光寺月参堂となり、
信州の善光寺の分院となった。
この善光寺の北側の貸家に、
明治三十五年(1902)の春から二年余り、
徳田秋聲が住んでいた。
ここが『新世帯』『足跡』『黴』などの背景になった場所であった。
秋聲の小説にたびたび登場するはま夫人との出会いの家であった。
善光寺の坂上の道路のまん中に、
椋の老樹がある。
道路拡張のとき切られようとしたが、
沢蔵司が宿っているというので反対され、
道路の中ほどに残された。
伝通院は、
徳川将軍家の菩提寺で、
徳川家の女性たちの墓がある。
江戸時代檀林があり若い僧侶が仏教を学んだ。
この学寮に修行僧として沢蔵司がいた。
わずか三年で浄土宗の奥義を究めたという。
元和六年(1620)五月のある夜、
和尚の夢枕に立ち「余は千代田城内の稲荷大明神で、
今から元の神にかえって永く当山を守護せん」と告げて、
暁の雲にかくれた。
そこで山内に沢蔵司稲荷がまつられた(坂の北側)。
また沢蔵司はそば好きで、
門前のそば屋によく行った。
その日は必ず代金に木の葉がまじっていた。
後をつけると、
稲荷社に入った。
それからは神前に、
最初のそばを必ず供えた。
椋の木のそばに、
幸田露伴が住んだ小石川蝸牛庵があった。”

30MAR2017 - 8
その稲荷にかわいい絵馬を発見!

30MAR2017 - 9
ソメイヨシノもぼちぼちと咲き始めてる

30MAR2017 - 10
『沢蔵司稲荷』

善光寺坂を上りきり、
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『伝通院』に到着
満開!

30MAR2017 - 12
こちらもソメイヨシノは咲き始め

伝通院横の坂(名前はわからず)を下り、
左折
すると、
30MAR2017 - 13
『三百坂』を発見!
(『ぶんきょうの坂』より)
“東京学芸大学付属竹早小・中学校の東側の塀に沿って北に下る坂である。
「今里人の伝に、
此坂は松平播磨守(大学頭の子孫なり)屋敷より二丁程隔たりたり、
右屋敷の家例にて徒の者抱入の始め、
登城がけ玄関前にて目見申付、
其時麻上下着用いたさば、
目見へ終にて衣服を改め、
跡より追つき供の前にかわるべきを、
もしかの坂を過るまで追付及ばざれば遅滞の過料として、
銭三百文を出させ候故、
かの家人とも三百坂と唱へしより、
後里人も皆その名を称すと云り」(『御府内備考』)
大名家のしきたりに縛られる、
下級武士の生活の実感がしのばれる坂名である。
『東都小石川絵図』嘉永七年尾張屋清七板には三百坂の坂下は「三百サカ下トヲリ」とある。
小石川御薬園(現植物園)、
氷川下への近道であったようである。”

三百坂を横目に西へ進むと、
30MAR2017 - 14
『吹上坂』に出た
(『ぶんきょうの坂道』より)
“「一坂 長三拾間、幅二間半、
右当町(善仁寺門前)北の方松平播磨守様御屋敷脇、
宗慶寺前に有之候、
右御屋敷内に有之候極楽水、
高き所より湧出吹上水とも申候に付、
其近辺を地名に申候故吹上坂と唱申候」(『御府内備考』)
極楽水という湧き水が吹き上げていたので、
一名吹上水ともいわれ、
この吹上が地名ともなった。
それでここを通る坂道を吹上坂と名づけた。
また、別名を禿坂という。
坂下は、千川(小石川)が流れ、
「播磨たんぼ」といわれた湿地帯であった。
極楽水の井は、
もと宗慶寺の境内にあったが、
播磨守の敷地の内に入った。”

吹上坂の西隣には、
30MAR2017 - 15
『播磨坂』
(『ぶんきょうの坂道』より)
“この坂は戦後の区画整理により、
新しく造成された環三道路(環状三号線)によって出来た、
極めて新しい坂である。
かつて、このあたりは、
水戸中納言頼房(光圀の父)を祖先とする、
常陸府中藩主松平播磨守の屋敷で、
広い面積を占めていた。
坂下は千川(小石川)が流れ、
その後付近一帯は「播磨たんぼ」といわれたたんぼであった。
戦後、ここに新しく坂が出来たとき、
播磨屋敷の跡地であり、
かつての「播磨たんぼ」へ下る坂ということで、
誰いうとなく「播磨坂」と呼ぶようになった。
地元の人たちの記憶により名づけられた坂名である。
昭和三十五年(1960)頃から「全区を花でうずめる運動」で地元の人たちが協力して、
樹齢十五年ほどの桜の木を約150本ほど植えた。
そして丹精の結果、
現在では「播磨坂さくら並木」として立派に育ち、
昭和四十三年からさくらまつりが実施されている。”

30MAR2017 - 16
ここのソメイヨシノのもまだまだって感じでした

30MAR2017 - 17
しかしすでにお花見をされてる方がいました

播磨坂を上りきり、
春日通りを渡って、
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『藤坂』
(『ぶんきょうの坂道』より)
“「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下るの坂なり、
藤寺のかたはらなればかくいへり」(『改撰江戸志』)
藤寺とは、坂下の曹洞宗田妙寺の俗称である。
『新編江戸志』には、慶安三年(1650)閏十月二十七日のこととして
「牛込高田辺御放鷹 御成の時、
還御の御道筋になり、
御供の人々当寺に立寄りありしに、
庭一面に藤ありしを 上覧ありて、
是こそ藤寺と 上意ありしより藤寺と呼ふよし」とある。
また『徳川実紀』大猷院殿御実紀巻七十九にも、
同日のこととして「小日向辺へ狩し給ふ」とある。
また、以前には湿地帯であったため、
河童にまつわる伝承があったことから、
禿(河童)坂の名も残っている。
藤寺のみ坂をゆけば清水谷
清水ながれて蕗の薹もゆ (太田水穂)”

丸ノ内線をくぐり、
鼠坂に行きたいなと、
小日向をちょろちょろ
「ここだ!」と右折したら、
どんぴしゃりに鼠坂に出た(嬉)

30MAR2017 - 19
『鼠坂』
(『ぶんきょうの坂道』より)
“音羽の谷から、
小日向台地へ上る急な石段坂である。
『改撰江戸志』には「鼠坂は音羽町五丁目より新屋敷へのぼるの坂なり、
至てほそき坂なれば鼠穴などいふ地名の類にてかくいふなるべし」とあり、
『御府内備考』には「坂 幅壱間程(約1.8m)長凡五拾間程(約90m)
右は鼠坂と里俗に相唱申候町合組合無御座候」とある。
細長くせまい、
鼠の通るような坂という意味であろう。
また、『御府内備考』の小日向之二の台町の書上に、
次のような記事がある。
町内の俗に鼠谷という土地は、
西北の方で、
当時武家屋敷辺一帯をいっていた。
もっとも武家屋敷になる前は、
小日向村の内で鼠ヶ谷村ともいって畑地であったと伝えられている。
『新撰東京名所図会』にもこの辺を鼠谷と称したので、
鼠坂と呼んだといっている。”

音羽通りを渡り、
先日見た七丁目坂に行ってみた

30MAR2017 - 20
『七丁目坂』
(『ぶんきょうの坂道』より)
“音羽一丁目22の南側を入り、
目白台の獨協中学・高等学校の方に上る大きく右回りに曲がる坂である。
旧音羽七丁目と八丁目の間から上る坂で、
七丁目坂と名づけられた。
『雑司ヶ谷音羽絵図』安政四年尾張屋清七板を見ると、
江戸川橋から護国寺仁王門まで一直線に広い道が通っている。
将軍が護国寺へ参詣するときに通った御成道である。
この通りに幕府は町屋をつくり、
奥女中の音羽という者に与えたといわれ、
音羽の名をとり町名にしたとの説もある。
音羽町は一丁目から九丁目まであったが、
京都の一条から九条通りに模したという。
護国寺側を起点として一丁目、
江戸川橋の方が九丁目であった。”

30MAR2017 - 21
たいしたことない!と思っていたら、
結構な勾配

30MAR2017 - 22
そして長い!

30MAR2017 - 23
終わった〜と思ったら、
まだ勾配が若干ある…

30MAR2017 - 24
『鳥尾坂』に出た

胸突坂を下りて、
水神神社にいるふーちゃんにご挨拶
暖かいせいか、
ふーちゃんはおうちから出て、
草むらで日向ぼっこしてました

30MAR2017 - 25
駒塚橋から見たソメイヨシノ
結構咲いてきました〜

駒塚橋には沢山の人
写真を撮る人、
お花見をする団体等々

近くの新江戸川公園、
改め肥後細川庭園にも沢山の人が…
和服姿の花婿&花嫁が写真撮影をしてました

川沿いを写真を撮りながら歩き、
八雲庵で休憩
とっても和む和室でお抹茶と和菓子を頂く
ふ〜ぅまったり

再び川沿いを歩いていると、
曙橋で、
今度は洋装の花嫁&花婿が写真撮影をしている
カメラマンの発した言葉で中国の方と判明
桜をバックに撮影…いいと思うけど、
なぜここで???とちょっと思っちゃいました…


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